お正月を守る、みんなの髙島屋

毎年流れるデパートでのおせち商戦が始まったというニュースを眺めながら(年が暮れるな、なんだか一年早いな。)など考えるのがごく当たり前になった。
人気の吉兆おせちを髙島屋通販で予約するなんてお金持ちが、実は本当に羨ましい。

実はかつて同じニュースを見た時に「おせち料理を買って済ませるだなんて!」と子供心に思ったのを克明に覚えている。買う人はとんでもない堕落をしているような気がしたのだ。うらやましいなとも思っていた。当時はとにかく年末になると問答無用で作らされ、それほどおいしくもないのに何故か作って食べなくてはならないお正月の謎の食べ物として君臨していた「おせち」とはある種、人生における義務だったからだ。

この義務は大変に重かった。

こんにゃくを捻じ曲げる技を身に着けたのも、延々と焦げないようにきんとんを練る技も、ついでに出来上がったそれらをいかにもそれっぽく四角い中に納めなくてはならない技も、全部どれもこれも、強力な叱責とともに身に着けた。

祖母が、母が、己の技術を伝承しようとするというよりも、どちらかというと己の生活力の誇示のために、また同時にいまだにそれを身に着けていない新入りのムスメをシバくのに恰好の場だったのだ。

こんなこともできないのか。これも知らんのか。右から左から降り注ぐ嫌味や叱責の数々。さぞかし大昔のお嫁さんたちとしてこのおせち伝承でいびられては悔しい思いをしたに違いない。そしてこうして今も負の伝統として直面させられているのだなとわなわなしながら包丁を握っていたものだった。そういえばすっかり忘れていたがあまりに叱られたためにうっぷん晴らしでこんにゃくをめった刺しにしたことまであった。

しかしそんな真っ暗な思い出はもう歴史のかなたに消えつつある。本当に良い時代になった。今は買ってくればよい。なにせもうできていて、置いておけばよいだけなのだ。お正月気分を最初からぶち壊すあんな年末年始の不穏な空気など伝承する必要なら全くない。それよりも「置いておきさえすればお正月らしくしてくれる四角い箱に入った豪華そうなお料理」として訳も分からず食べているほうが平和な時間が送れるというものだ。

お正月らしさというのはコンビニエンスになりすぎたこの頃はほっておくと消えてしまいかねないが、おせちがある種の漬物石となっていれば大丈夫。限りなく気楽にそして楽しいお正月が演出できる。日本は良くも悪くもこうした換骨奪胎が得意技。おせち商戦もニーズがあるというだけでなくて、限りなく軽く楽にしていこうという大きな流れの中にあるんだろう。

もしかしたら将来は「お茶やってました、お花やってました、和服着るんです。」に並んで「私、おせちも作れるんです。」のセリフが婚活市場で「おお、ちょっとすごいなこの人。お嬢様。」といったスペックやスキルの判断材料になっていく日も、近いんではないのかなぁ。